柳沼昭徳『祝・祝日』ノート①「なぜ踊る」
皆さまご無沙汰しております。代表の柳沼です。
烏丸ストロークロックの新作『祝・祝日』仙台公演に足を運んでいただいた皆さま、誠にありがとうございました。この場を借りて御礼申し上げます。ちょうだいしましたご感想を胸にカラスマメンバー一同は今1月の広島公演に向けて、稽古を進めております。
上演の様子は劇団のFacebookやTwitterで舞台写真をアップしていますが、音楽の中川裕貴が「一見すると新感覚時代劇」と表したように、未見の方々からは「どうしたカラスマ」「なんか変なことしだした」と困惑まじりの反応をちょうだいしています。烏丸ストロークロックは90年代に興った現代口語演劇をその源流として、現代社会に散見する問題や課題をリアリティをもって舞台で作品化してきましたから、『祝・祝日』はこれまでの作品と比べて明らかに異質な作品となっています。
観に来ていただけばこれまでの作品と密接に関連していることや、お届けしていようとしていることが、少なからずおわかりいただけるとは思いますが、私たちが、どうしていま、この作品を作る必要があったのか。というお話を「なぜ踊る」「なぜ祈る」「なぜ祝う」という3つのテーマに分けて、これよりご紹介していきたいと思います。
ノート①「なぜ踊る」
仙台公演のアフタートークでも申しましたが『祝・祝日』という作品は、烏丸ストロークロックが今後10年ほどをかけて、少しずつ形を変えながら一つの祭りの形態を醸成させようとする計画です。着想からすぐさま「これはかなりかかるぞ」と。
神楽との出会い
2015年より、劇団内外私の関わる作品の随所で「神楽」なる要素が登場しはじめました。京都芸術センターで製作した『新・内山』(2015年11月)という東日本大震災を背景とした作品が初出です。作品を作るにあたって被災地である福島県、宮城県を取材しているなかで訪れたせんだいメディアテークで「3がつ11にちをわすれないためにセンター」という震災関連ライブラリに立ち寄った際「福田十二神楽(制作・岩崎孝正)」という一本のドキュメンタリー映像と出会いました。
「福田十二神楽」は相馬郡新地町の諏訪神社で江戸末期より舞継がれてきた神楽で、地元少年たちが春と秋に十二種の舞いを神社に奉納するというものです。大人のサブとしてではなく、子どもを主役とする神楽というのは、全国的に見てもとても珍しい形態です。
コミュニティと神楽
福田十二神楽は、3.11と福島第二原発の事故によって、子どもたちが避難を迫られ一時は存続も危ぶまれました。2014年には子どもたちの多くが無事に地域に帰宅することができていましたが、そこには「神楽をやりたい」という子どもの声がありました。過去にも福田十二神楽断絶の危機はありました。遡ること70年以上前、もともとは青年以上の男性が神楽の舞手だった当時、村の男子のほとんどが太平洋戦争へとかり出され断絶の危機がありました。しかし、存続を願う住人たちのアイデアから、子どもなら地域の外へ出ていくことはないという理由で、現在の子ども神楽の姿へと変容したとのことでした。
これまで劇団とはいうものの、創作意欲という個人的動機に依って活動を行ってきた私にとっては、いち芸能が、地域のコミュニティの維持に重要な役割を担っている姿は、とても新鮮でまた強い憧れを感じました。
信仰と神楽
舞台芸術は、当然ながら舞台にいる演者が客席にいる観客に向かって見せる芸術ですが、福田十二神楽に関わらず、法印系神楽と言われる山伏神楽を見ていると、舞いの振りのつけの多くが、客席に背を向けたものであることに気づきます。では舞手はどこと向いているのかというと、舞台奥に掲げられた幕の向こう、人ならざる神の領域に向かっているのです。(福田十二神楽だと舞台の奥に据えられた獅子頭)山伏神楽は、神と人とをつなぐ役割を担う山伏たちが、神楽という字のごとく、踊りを舞うことで神様を喜ばせて、村に招き入れ、民に五穀豊穣、家内安全、除厄招福をもたらすための儀式です。
多くの東北神楽の本質はここにあります。私はこれを、営みを海や山にゆだねるしかなかった頃のかつての風習と見るだけでなく、文明が発達した現代においても、理屈はなんとなくわかったとしても、コントロールが困難な大災害、原発、戦争、人間の生き死。私たちがおこなっている演劇やダンスといった舞台芸術が、こうした人ならざるものの領域と向き合える奇跡的な場であることを、神楽を通じて改めて強く意識するようになりました。
論理を超えて、型に身をあずけて、舞う
これまでの烏丸ストロークロックの作品を振り返ると、作品が終盤に近づくにつれ、俳優のセリフ量が極端に少なくなっていき、ト書きの分量が多くなっていきます。前作の『まほろばの景』(2018年2-3月)で見ても言葉単体で見ればなんのこっちゃというものが多い。これは私の演劇観と直結しています。物語の解決や決着させることが到達点ではなく、俳優の身体や空間を昂奮させ、舞台も客席もカタルシス状態に至らせることが演劇の大きな魅力のひとつであると考えているからです。
神楽に惹かれたのも、このカタルシス状態があったからでした。
東北の神楽の中でも最も激しいとされる「早池峰神楽」では、舞手が口伝で伝えられる複雑な型と激しい囃子に牽引されながら舞い続けているうち、カッコ良くだとか、美しくだとか舞手個人の色気を挟む余地もないほど疲労と集中の度合いが高まっていき、忘我していきます。このとき傍観しているはずの観客もまた、体の底から何かの湧き上がりを体感します。それは日常ではよほどのことがない限り感じることのできないなにか、理性や感情ではないなにかが湧き起こっていきます。それが神懸かりなるもので、今回の『祝・祝日』はそこを目指しています。
我々の作品をみたことのあるお客さんに『祝・祝日』を説明するさい、こう表現します。「カラスマのラストシーンが1時間以上続く」と。
今回はここまでです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次回は「祝・祝日ノート ②なぜ祈る」(2019年1月12日UP予定)をお送りします。
(舞台写真)2018年11月烏丸ストロークロックと祭『祝・祝日』撮影:相沢由介
★『祝・祝日』広島公演2019年1月18日(金)~20日(日)@広島市東区民文化センター
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